20代って何をすべきなのか

20代をどう過ごしたら良いのか、考えながら気づいたことを書くブログ

〜みんなやってるからやる〜

 

 

 

 

子供の頃から(といってもまだ大人にはなりきれていないが)みんながやっているから当然のごとくそれをやる

というのが嫌いだった

 

協調性の無さと言われてしまえばそれまでだが

理由もなく流れるように選択肢を選ぶのはカッコ悪いような気がしていた

 

 

みんなが大学に行くから進学する

みんながインスタをやっているからやる

みんなが残業しているから残業する

 

とにかく行動する理由が「みんながやっている」ということに過度に嫌悪感を抱いていた

 

 

今思えば周りと違うことをすることで自分と周囲の人間の存在を別のものだと捉えることで、自分に酔って優越感を感じていただけに過ぎない

 

 

ただ当時は人生の選択の理由をそんなものにしてはいけない、と本気で思っていた

 

 

 

 

〜価値観〜

 

 

 

 

 

自分の価値観がわからない

 

人のことを心の中でバカにし続けてきたからであろうか、何をするにしても自分がどう思われるか、どう評価されるかを気にしてしまう

 

 

自意識過剰は今日も健在だ

 

 

大多数が価値を感じているものを持てば

羨ましがられるだろうという理由で

可愛い彼女を作って

ブランドの服で身を固めて

名前の大きい会社に勤めて

お金をたくさん稼いで

 

 

いつのまにか人に羨ましがられるために行動を選択していた

 

 

自分が無いまま適当に生きていた

 

思えば休日にやりたいことが無かったし

面白いと心の底から感じることもなかったような気がする

 

 

打たれ弱くて背伸びしてて、臆病で影響されやすい自分に今になって気づいた

 

 

世の中はそういう無知で弱い人間を食い物にするビジネスが横行してる

 

あまり欲しくないものを持っていないと損だと思わせたり

自分の価値観を押し付けて人の選択を狂わせたり

暇な時間に感じる孤独や不安につけこんで助けるようなフリをしておとし入れたり

 

 

 

知識をつけて、価値観をしっかり持って

冷静に、何が大事か、本当に必要か

惰性で続けていないか

本心と向き合う癖をつけて自分の頭で考えなくてはならない

 

 

働いている時はこんなにも自分は頑張っているのだから人生が充実していないとおかしい

というような間違った形に歪んだ欲望が

 

友達が多い

休みの日には遊ぶ予定が詰まっている

そんな一般的な充実に執着して

承認欲求を満たすために人生が充実している自分を演じていた

 

上手くいかない現実と日々のストレス

そのジレンマを埋めるために消費に走って

自分で工夫して楽しく過ごそうとせず

焦燥感にかられてお金で解決しようとしていた

 

 

 

 

レジで緊張する

 

 

スーパーやコンビニなどでレジに並ぶのが嫌いだ

 

 

待っているときに何をしたら良いのかそわそわしてしまうし、店員さんが若い女の子だとなおさら慌ててしまう

自然に見せるために携帯を見ているフリをするのがいつものパターンだが、あまりスマホを見ない方が人生が充実するというようなどこかの学者が提唱したことを鵜呑みにしているので、

ゲームアプリも入れていないし、TwitterやインスタグラムのようなSNSは基本的に充実している知り合いの写真などしか目にしないので、自分の生活と照らし合わせて相対的に見て、だいたい落ち込むので最近開かなくなってしまった

 

 

 

そんな風に携帯でやることがなく、ひたすら画面をタップしているふりをしながら

左手は携帯にそえたままでよいのか?ポケットに入れたほうがよいのか?自然に力を抜いてだらんとさせておけばよいのか?などと考えていると目が泳いでしまい周りの人から見れば明らかに自然ではない人になってしまう

 

 

 

 

自意識過剰なのだ

 

 

 

自分を実力より大きく、魅力的に見せたいという気持ちが強いあまり、自然体ではなくなり

ただの挙動不審な人になってしまう

 

 

 

自分に自信があり、余裕のある雰囲気のある人が心底羨ましい

 

 

 

話は戻ってレジの前

 

前の人が終わり自分の番がきた

母に買い出しを頼まれていたので財布は明らかにおばさんの物だ

カードを持っているか聞かれ財布を自然を装ってゆっくりとケツポッケから取り出す

 

 

 

使い慣れていないので動作がぎこちなくなる

 

 

カードを渡すと、その後どこに目をやってよいのか分からず、ただ財布のお札入れの中を見て

千円札を探している人を演じた

 

 

値段をつげられ、店員さんがレジ袋に手をかけた時「袋、大丈夫です」と言った

 

 

このレジ袋を断る言葉いつも言う時に緊張する

コンビニで揚げ物を頼む時、商品名を言うくらい恥ずかしい

店員さんとの会話で、自分が言葉を発さなければならない状況が得意じゃない

 

 

一度、前述のように目のやり場を探している時に虚をつかれた私は

レジ袋に手をかけて止め具から引き抜こうと手首を曲げた店員さんに向かって

「あっ、ぃひ、レジ袋大丈夫ですぅ」

と、大声で言ってしまって赤面したことがある

 

 

それからあまり成長しておらず

少しトラウマになってしまい、余計自然に振る舞うことが難しくなってしまった

 

 

 

自分のそのような性分を、変えるのではなく

受け入れられるようになりたい

 

しかし受け入れたら自然になれるだろうが、自然に受け入れられるようになるには考え方を変えるしかないのか

だかムリに変えようとすると以前のように言葉が裏返ってしまう最悪の事件を引き起こしかねない

 

 

そんなことを考えながら慣れていない財布で、知らない店員さんの前で、お札を出し、財布の小銭入れを開けてお釣りを待っていると

小銭を出そうとしていると思った店員さんは手を体の前でクロスさせて待っていた

 

「大丈夫ですお願いします」と申し訳なさそうに言うと

レシートの上にお釣りを乗せて渡してくれた

 

 

それを脱力した感じに財布に戻せるか、ということを気にしながら

ここでレシートからスライドして落ちる小銭が財布の口の角に当たって地面に落としてしまったら

小銭の落ちた音が半径5mほどの人の耳に入り

一斉にこちらに視線が集まってしまったら

自然に小銭を拾う人物を演じなければ

 

などと心配していたが

 

運良く収まってくれた小銭に感謝しつつ

 

 

やれやれ買い出しは大変だと脱力したサマを装って

品物を袋に詰める棚へと買い物カゴを持って歩き、ことが無事に済んだことを安堵して

無意識に止めていた呼吸に気づき、肩をおろして心から息を吐いた

 

 

 

 

 

 

好きな人を見かけた

 

 

 

もはや好きなのかどうかもわからないが

昔可愛いと思っていた人を街で見かけた、ショートにしていた

 

見なければ思い出さなかったのに

なんで一瞬ひさびさに見ただけなのに何回も思い出すんだろう

 

はたして好きなのかどうかもわからないし、ずっと忘れてたのに

調子いいよな

気持ちがぶり返して、相変わらずなのに大人っぽくなってて

 

 

まあまたすぐ忘れるか

したいことがない

 

 

 

したいことがないって恐ろしい

 

でもなんで生きる理由がないと怖くなるんだろう

なんとなく生きてる人は「なんとなく生きてること」が好きでやっている

それではダメなのか

 

生きる理由、深く考えるとわからなくなる

 

自分は何者なのか、なんで生きるのか、何がしたいのか

どうなりたいのか

したい、やりたい、好き、というものがないとダメなのか?

 

 

 

 

 

お酒の力

 

 

  細かいことを気にしちゃう人ほどお酒は有効なのだろう

  気にしなくても良いことは山ほどある

  でも人間は生存するために考えるという本能から時間があると考え過ぎてしまう

 

 

 

  生き残るための性質が、今、平和になりすぎたことによって逆に不利益に働いている

 

 

 

 

  どうにもならないことは山ほどある

 

  言いたいことが言えない、意見が食い違う

  思う通りにならない

 

 

 

   年齢が上がればそれを受け入れられるのだろうが

 

 

   年齢が若いと、その事実、重圧を受け入れられずに助かる道を探してしまう

 

 

   だがそれで助かるなら良いのではないか

   それも1つの需要であり

   1つの答えであり

   1つの意見だ

 

 

   日頃抱えるストレスが多い人ほど

   酒にハマりやすい

 

 

 

 

 

   そんな気がする